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 早稲田大学
 about  

WASEDA UNIVERSITY VOLLEYBALL CLUB 

早稲田大学バレーボール部は、昭和6年(1931年)に創部、昭和28年(1953年)に、単独で渡米して全米選手権に出場し世界の主流 であった6人制バレーを体得した。日本へ持ち帰り6人制のパイオニアとなった。関東大学リーグ優勝23回、全日本大学選手権優勝3回。2011年、男子は関東大学リーグ1部リーグに所属、女子は2部リーグに所属。リーグ戦優勝と学生日本一をめざして、鍛錬している。

item1h3a1c1b2a3a1b3b1a3a3a1a1a 東日本大震災を経験して      飯沼 康太さん(平成18年卒業)

 当時、私は勤務する学校で入試業務を行っていました。「あ、地震だ・・・。」最初のわずかな揺れを感じ、誰かがそう発した次の瞬間、下から突き上げるような地鳴りとともに巨大な揺れが襲ってきました。木々や電波塔はメトロノームのように左右に揺れ、駐車してある車はボールのように弾んでいました。私はその恐怖をこらえるのに必死で机の下に潜り込んでいました。最初の大きな揺れがおさまり、あたりが静まりかえると同時に救急車や消防車のサイレンが止むことなく鳴り響きました。これはただ事ではないと、その時初めて実感できました。車のテレビをつけると大津波警報が発令され、家や人がのみ込まれていく映像がそこにはありました。私の住む地域は内陸にあるため、津波の被害は免れましたが、この世が終わってしまうのではないかと本気でそう思いました。

 3・11から週が明けると、私の勤務する高校は避難所に指定されました。ちょうどその日、福島原発が次々に水素爆破を起こすという事件が発生したせいもあり、その日の夜には津波で家を失った方々や、原発付近に住む方々で避難所は満杯になりました。命からがら逃げてきたその方たちの話の中には、耳を塞ぎたくなるようなものがたくさんありました。「職場のみんなで必死に津波から逃げていたが、振り返ったら後ろを走っていた同僚の姿は波にのまれて消えていた。」「学校の屋上で一夜を過ごした。下は大津波が流れていて、流される人々の悲鳴を聞きながら恐怖に震えていた。」この震災の残酷さをよりまざまざと感じました。

 福島に在住する早大バレー部OBは野地先生(S54)と私の2名です。2人とも高校の教員をしており、震災の被害も少なく済みました。野地先生は今回被害のひどかった相馬地区にある、相馬高校の監督も務めた方で、そこでは全国大会に幾度となく出場し、国体入賞も果たしました。現在は福島県バレーボール協会の理事長として活躍され、第二のふるさととも言うべき相双地区や他の被災地の復興のため、様々な復興支援活動に尽力していらっしゃいます。その野地先生と同期であり、現在、北九州で教員をなさっている石田さん(S54)が5月の下旬に我々を慰問しに来てくださいました。放射能問題があとを絶たないなか、あまり寄りつきたくないであろう福島の地をはるばる九州地方から慰問してくださったことに野地先生も私も感動し、今回の会報に報告させて頂いた次第であります。そこでは、酒を飲み交わしながら早稲田の話やバレーボールの話をしました。あの日のことは忘れることはないでしょう。石田さんにはこの場をお借りして感謝申し上げたいと思います。

 また、震災直後から大量の支援物資を送ってくれた現役時代のチームメイトである藤森、勝田、中島、小室、須永、二木、加賀さん、そして励ましの言葉をかけてくださった当時の監督の菊地さんにも篤く御礼申し上げます。

 原発問題で行く先の見えないなか、福島県は今、様々な人たちからのお心添えを頂き、懸命に立ち上がろうとしています。我々も、早稲田スピリッツを胸に福島の復興に尽力していきたいと思っております。今回は駄文長文を読んでいただきありがとうございました。

ふくしまは負けない

 

飯沼康太さん(いいぬまこうた)

2002年(平成14年)3月に福島県立福島高校卒業、同年4月に早稲田大学人間科学部入学、バレーボール部入部、ピンチサーバーとしてリーグ戦で活躍し、全日本インカレ3位に貢献した。2006年(平成18年)4月に福島県教員に就き、現在福島県立福島商業高校教諭で高校生にバレーボールを指導している。

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左から野地雅晴さん(昭和54年卒)、飯沼康太さん、石田英久さん(昭和54年卒)