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早稲田大学バレーボール部 は2011年(平成23年)に創部80周年を 迎えます |
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ニュース |
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「おとぎ話三題」 寄稿・丸谷統男 (S30)
丸谷統男氏(S30)から原稿を寄せていただきました。学生時代のチームメイトとの今に続く集い、女子部についての思い出話、米国遠征など6部構成になっています。
「おとぎ話三題」 “はじめに” おとぎ話は、子供に聞かせる昔ばなしである。「昔」とは・・・ずっと以前のこと・・・。 辞書には、過ぎ去った十年を単位にして呼ぶことばとある。二十年は二昔という。懐かしい時代のことや、先輩や同僚、共に戦った仲間達のことを思いつくまま綴ってみた。それは、昔々の大昔、そのまた昔の話になるおとぎ話でもある。
(1)「W・V・C(Waseda Volleyball Club)懇親会のこと」 仙北谷氏から当懇親会について書いて欲しいとの依頼を受けていた。この会は、昭和30年卒~33年卒まで、私の最上級生の弱い時代に、一緒にやった仲間達が集まって来る会である。「W・V・C懇親会」と名付けてはいるが、会長もいない。語り、飲み、ともかく楽しくやろうという会である。最近は、まだ現役で頑張っている西川順之助氏(中日球団社長)の出席に合わせてやっているが、中日ドラゴンズの裏話などが聞けるのは、また、楽しいのである。特に、堤氏の実行力で会を盛り上げていただいていることに感謝している。 メンバー (男子)29卒・・塩野 30卒・・丸谷、高橋、矢田、甘泉、西川、 多田、(故人 岡田、石井) 31卒・・植松、大原、佐藤、大塚、森本、 (故人 田中、篠崎)32卒・・石井、堤、蘇馬、原田(俊)、石原、 船山、(故人 宝田、小川)33卒・・原田(昭)、青木、松田、馬場、 佐久山 (女子)29卒・・今野 30卒・・平田、赤松 31卒・・金井、今田、 (故人 渋沢)32卒・・渡邉、黒崎、遠田 33卒・・淺川
(2)「一緒に戦った仲間達」 昭和29年、丸谷キャプテン、甘泉マネージャー、矢田、西川、高橋、石井(旭・故人)の4年生でチームをまとめて行かねばならなかった。前年のリーグ優勝、イカレ優勝のメンバー6人が卒業した。どうやってチーム作りをするか、二部転落が危惧された。ともかく、現在いるメンバーで全力を尽くすしかないのである。4年生から1年生まで年代を超えて議論した。キャプテン丸谷は、全体を指導するどころか、只、プレーに専念し、春、秋リーグを一戦一戦を無我夢中で戦った。皆んなの力が結集されて、4位を保ち、3年生にバトンタッチが出来た。先輩諸氏の不満顔が目に浮かぶが、亡くなった谷口、片野両監督の諦めきった顔ではあったが、よく激励をいただいたことに、心から感謝したい。一緒に戦った仲間達が、今年もやって来るのである。楽しきかな。酒がうまいぜ。
(3)「女子部インカレ ベスト8の謎」 昭和27年の4月に、今野さんを中心に、同好会的女子部が誕生した。よく練習する。暗くなっても、屋外の戸塚コートで練習していた。私は、女子部の面倒を見ることに反対であった。二部転落の危機である男子部の練習だけで精一杯であるからだ。しかし、彼女達は、男子の練習が終わるのを待って、男子部員に声をかけ指導をお願いしていた。短い時間でも練習して、強くなろうとする熱意が伝わってくる。昭和29年7月、全日本大学女子選手権が京都で行われた。男子のインカレが終わり、帰りに女子部を応援していこうということになり、甘泉ら数名で京都入りした。女子部には監督が不在だったので、私が即席監督でベンチ入りした。到底、実力からいっても、どこにも勝てないだろうと、誰もが予想していた。何と、関西の強豪チームを次々と倒していくではないか。とうとうベスト8まできた。彼女達の実力からして、考えられない戦績である。なぜ、あんなに、勝ち進むことが出来たのか。今だにこの謎が解けずにいる。スポーツでは、勢いとか、波に乗るとか、よくいわれているが、それはある程度の潜在能力があってのことと思っていた。只、1つだけ謎が解けてきたのは、あの戸塚コートで、暗くなってからの練習の光景が私の目に焼きついている。これが、あの粘りを生み、相手の自滅を誘発させたものと思っている。併せて、平田キャプテンのもとに、一つにまとまったことだと思う。1点を取る度の、あのはしゃぎようは、私もベンチで一点ごとに立ち上がったものである。今野初代キャプテンと共に、この謎のメンバーが懇親会にやって来るから楽しく、嬉しいのである。 (4)「先輩・同僚に揉まれて」 むかし、昔のまた昔(昭和26年)のことである。1人の男が、唐草模様の風呂敷を持って、当時の学生食堂の片隅に居た。バレー部への新入部員達、全員集合と相成り、春の合宿は日立多賀工場で行うので、その打ち合わせである。この1人だけは、ボストンバックがなく、唐草の風呂敷包であり、無口で、変人に見られていた。新人たちには、高校選抜選手が多く、東京の矢田、北海道夕張の多田、九州福岡の岡田(故人)、和方(故人)、韮山の高橋など、名前を聞いただけで、この男は萎縮していた。合宿では、先輩達と一緒にトレーニングに入るのであるが、新人への指導は特に厳しかった。(いつの時代でも変わらないと思うが・・・)矢田、岡田、多田、和方と「た」のつく名前が多かったので、この男は丸田と呼ばれるようになる。本名、丸谷統男(まるやむねお)であるが、訂正もせず「ハイッ」といつも返事をしていた。同僚からは、あいつ「あほか」と云われた。名前を訂正しないのは、秋田育ちの秋田訛丸出しでは、何回も聞き返されるのが厭であったからである。合宿での先輩は、錚々たるメンバーであった。4年生の古我、桂、上野(故人)家氏、高田、3年生の倉本(故人)、内山、松田(故人)、2年生の佐藤(故人)、遠藤、見波、御酒本、三島(故人)、塩野、安田、清水、岸田。ここにあげた先輩から数多くの指導を受けてきた。卒業後も現在も、皆さんとご交誼をいただいていることは幸せこの上ないと心から感謝している。この中で最も怖かった先輩は高田マネージャーであったが、よく面倒もみて戴いたこと深く御礼申し上げたい。この合宿で、日本一の名センター(セッター)の古我先輩から指導を受けた。当時のタッチプレーで、スナップを効かせた攻撃の指導であったが、体がコチコチの緊張で、ボールが地面に叩き付けられない。ジャンプをしないで叩き付けようとすれば、ボールが途中から離れてしまい、金網に当たってしまうのだ。ここでも頭の悪い、動作の鈍い男として、レッテルを張られてしまった合宿であった。新人の日常やるべきことが沢山あった。ボールの手入れである。縫い目に油を塗る。ニードルで紐を解く。空気を抜く。翌日はその逆を行うのである。更にコートを掃除し、散水し、ネットを張る。ラインを引くなど、新人時代の思い出は尽きない。これが、後の選手生活、企業人として、また、家庭人として、実に役立ったことを付記しておきたい。 (5)「アメリカ遠征のこと」 昔、昔の大昔、昭和28年の出来事である。思いもよらない、全米学生選手権への出場招待状が舞い込んできた。これには、岡田、谷口氏の当時の監督、コーチらの働きかけがあったことが大倉氏の渡米日記によって詳細がわかった。ともかく、我々部員は、てんやわんやの大騒ぎになった。前年のインカレ優勝で学生ナンバー1が効いているわけだが、アメリカに行けるなんて夢のまた夢であった。お金がない。どうやってアメリカに行くのか、6人制をやったことがない。誰が支援してくれるのか、英語が話せない、飛行機か船か、恥をかきに行くだけだ。否定論が先行していた。議論百出の中で、「進取の精神」が決め手になった。どんな困難にも向かって決行し、世界のバレーボールを日本に導入しようということで渡米が決まった。「金が無い」が皆んなで集めよう。郷里に帰って友人達に後援会をつくってもらった。親も親戚も金を出してくれた。あっという間に、私は20万円を集めることが出来た。無口の秋田弁の丸谷が積極的に挨拶まわりや、学校へ行ってはバレーボールの講演をするなど、人間が変わったように思えた。我が郷里でのことであるが、こんな話もささやかれたと聞く。バレーボールは女の子のスポーツだろう。当時、まだ秋田県で外国へ行ける選手は3人しか居ない。体操の小野、マラソンの山田、バレーボールの丸谷はどんな男だ? ともかく、県内では、外国へ行ける三人男になったのは栄誉なことであった。その後、モスクワ遠征(日本代表)、第四回世界選手権(ブラジル)キャプテンと繋がったので面目をたもつことが出来た。何とか、「金」は出来た。ところが、アメリカでの大会日程に合わせて、太平洋を渡る船が決まらないという。後日、岸田先輩(当時マネージャー役)から聞いた話だが、宮内庁へ行って交渉せよと、当時の緒方竹虎自由党副総裁の秘書官から連絡があったという。宮内庁と船とどう関係があるのかびっくりしたという。皇太子殿下(現 天皇陛下)が豪華船ウイルソン号でイギリス王女の戴冠式に3月末に出発される。その荷物置き場として部屋を借りているので交渉してみたらどうかということであった。その部屋の一部を借りることで決めてきたという。この船の荷物置き場の部屋とは、船底にあるエンジンルームの隣の倉庫であった。そこに、簡易ベット(二段)を入れて、我々の寝床をつくってくれた。エンジン音で話が全く出来ない。今、あのベットの部屋で、アメリカへ行けと言ったら殆んどの旅客者は断るだろう。私たちは、この騒音も心地よい響きに変えて、未知の国アメリカへの夢をこの船に託したといってよい。明治時代の咸臨丸のことを考えれば、この船は安全で、安心度、スピードなどどれも比べようがない。心の持ち方で、人生が変わることを体験したように思えた。昨年、大倉先輩が、日本バレーボール界、初の6人制遠征の詳細日記を執筆した。この歴史的渡米記録を後世に残す必要がある。五十年史、七十年史と共に管理してもらいたいと思う。
(6)「留守軍の活躍」 アメリカ遠征中に春のリーグ戦が開催されるので、早大は留守軍で戦わねばならない。留守軍のキャプテンは安田先輩。次のメンバーでチームを編成した。 (前衛) 矢田 岡田(故人) 篠崎(故人) 船山 (中衛) 大原 植松 蘇馬 森本 (後衛) 安田 高橋 石井(旭・故人)石井(久) 祝原 戦績は1勝9敗。最下位の6位で入れ替え戦は教育大(現 筑波大)に決まった。渡米組の帰国が、この入れ替え戦に間に合って一部に残留することが出来た。留守軍について、法政大の主将が次ぎのように語っている。「1軍を全米選手権に送って、早大は留守軍で戦ったが、早大大原の攻撃に我々はやられた。早大留守軍はいやな相手であった」と。精一杯に頑張ってくれたことを渡米組の1人として深く感謝するものである。これが次の時代(丸谷キャプテン)にリーグ4位で一部残留を保持したことは、留守軍での体験があったからだと思う。故人になった岡田、石井(旭)、篠崎の3名に対しあらためてご冥福をお祈りします。おそらく、生きていてくれたら、「W・V・C懇親会」に喜び勇んで来て、大いに気焔をあげることだろう。 |
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