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早稲田大学バレーボール部 は2011年(平成23年)に創部80周年を 迎えます

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「早稲田大学排球部誕生など」寄稿  守屋寅雄 (昭和11年卒)

 

早稲田大学排球部誕生などについて、書き残す気になったのは、当部創設当時の記録は残っていないと、数年前に知ったことによる。それ以来、何とか書き残す気になっていたが、老人惚けし、ペンを握るのは億劫になり、徒に月日が過ぎ去るばかり、遂に後期高齢者の94歳、体力気力は愈々衰え余命幾許も無いのに気付き、文才は皆無ながら漸くペンを取る気になった次第。

 ついては、当部の創設者である赤城 功氏(S9卒)について述べなければならない。同氏は、昭和5年、明治神宮外苑競技場を中心に開催された極東大会(中国、フィリピン、日本、3国の対抗競技)の排球競技(9人制)において、日本代表(主力は神戸高等商業学校チーム)の一員として、広島第二中学校生ながら参加し、得意のフライング・レシーブを再三披露しながら活躍したのであった。日本代表チームは全敗。女子部の代表、愛知淑徳女子高等学校チーム(12人制)は全勝。大会当日、私は見学している。

 赤城氏は翌6年、当大学に進学すると、早速、排球に多少経験のある学生を勧誘し、同好会を結成した。ところが、当大学には排球コートが無く、そこで赤城氏は穴八幡神社の裏手に所在したスコットホールと称したキリスト教会(当大学の米人教授、ベニホフ博士が主祭)のメンバーとなり、同教会付属の友愛学舎に入居し、同教会の庭に粗末な練習コートを手造りしたと聞いている。同好会は体育会の排球部として承認される迄はチーム名をスコットホールと称していた。

 当時、私は浦和中学校に在学し、排球部員であった。同校排球部は関東中学校排球大会の優勝チームであり、当時、練習相手が少ないため東京大学、慶応大学、日本体育大学、明治学院、等に挑戦し、多少は自信を持っていた。早稲田大学にも排球部があると知り、昭和7年の春、スコットホールのコートに於いて挑戦したところ、スコットホールチームは弱体であり、我々の相手としては不足であった。赤城主将は孤軍奮闘、小石の散在するコートのため膝、腕等に鮮血を滲ませていたのに同情し、手加減する程であった。

 この結果、スコットホールチームは未だ体育会の排球部として承認されていなかったが体育会から今後は中学校チームと対戦は禁止する旨の注意を受けたと、後に聞いている。

 私は昭和8年入学後、赤城氏の勧誘を受け入会したが、中学同窓の高橋重治君(中衛右)は受験前から即戦力として勧誘されていたのである。同期入会者は、三上修平(稲門会名簿に記載されていないが、3年間、前衛左として主要なメンバーであった)、多田長幸(前衛中)、岡田英雄、高山克巳、木村正城の諸君であり、戦力は増強された。

 同8年、夏休暇には、赤城主将の発案による西日本転戦を実施し、福岡、広島、呉、神戸の各市所在の各チームと対戦し、貴重な体験をした。当初の計画では京都、名古屋の両市を含めていたが、炎暑の候の安宿暮らしに体調を損なう者が多く、やむを得ず神戸に於いて転戦は中止したのである。

 呉市に於いては、偶々、呉市排球協会主催の西日本排球大会が開催され同協会の特別の計らいに依りスコットホールチームも早稲田の名を名乗り参加した。試合では難なく決勝戦に進出し、当時、全日本の選手権を保有していた呉水雷チーム(海軍呉工廠水雷部)と対戦、第1セットは惨敗、当方の得点は2~3点であったか。

 第1セット終了した途端、漁業網元の親方らしい風体の地元の応援者から「それでも早稲田か・・」との叱声が掛かる始末。この叱声に我々一同無言のまま汗を拭いながら、「早稲田」と言う名の重みを痛感したのでないか。私自身も闘志が湧き上がった。

 第2セットは俄然、大接戦、ジュースの繰り返し、28対28の得点、夏の日も暮れかかり、審判の判定も困難となり、試合続行不能と判断され、優勝は呉排球協会の預かりとなる前代未聞の結果となった。後に、さすがの呉水雷の選手の中には「早稲田は恐い(強い)」と洩らしたとのことである。

 同8年、全国高専排球大会に優勝し、その功績により秋の当大学体育祭には名誉旗を授与されると共に体育会の排球部として認められた。初代の排球部々長は堤 秀雄教授である。

体育会排球部として承認されると、翌9年度から僅かながら部費を支給されたが、ボール購入費の足しになる程度であり、それまでと同様に部員は部費を負担せねばならなかった。

その他、ユニフォーム代、試合出場の交通費、合宿費等各人相等の負担であった。

 因みに、当時は不景気のどん底時代であり、大学出のサラリーは六十円程度、当大学の学費は年額百円、大学周辺の食堂のライスカレーは十銭乃至十二銭、喫茶店では話し相手の女給同席のコーヒー十銭、玉突きの1キュウ三銭、煙草ゴールデンバット七銭であった。部費は年額五円であったか。

 昭和9年には前年の西日本転戦による早稲田排球チームの存在が知れた結果と認められるが、長崎重芳(早稲田の主砲となる)、山口祚一郎、前田豊、手塚詠之助、狩野秀男、梶山方義の多士済々が入部し、益々戦力充実向上した。

 同10年には、木下吉治郎(後に日本一の前衛)、伊藤秀明、堀勝次、谷口清、湯浅辰雄、西島輝雄、三代益美の諸君が入部し、戦力は愈々充実した。

 同10年、神戸市に於いて開催された全日本選手権大会は遂に呉工廠チームを破り、日本一に輝き、早稲田大学排球部第一期黄金時代の幕開けであった。

 なお、赤城氏は卒業後、松江市所在の歩兵第六十三連隊に入営し、一年志願の幹部候補生に合格、少尉任官後も在隊し、その後、戦車隊附となり、戦争の末期には硫黄島の守備に任じたとの事である。

 硫黄島戦車部隊長 西 竹一中佐は、昭和7年、騎兵中尉当時、ロスアンゼルスオリンピック大会の馬術大障害飛越競技の優勝者である。赤城氏は部隊長と何を語り合ったことだろうか。 硫黄島の戦車隊は戦車を地中に埋め砲台とし、米軍と対戦、全守備隊と共に玉砕したとの事であり、赤城中尉(?)も鋼鉄の棺の中、日本帝国万歳、早稲田大学並びに排球部万歳を叫び散華されたのではなかろうか。

 当時、その他の球友も各地戦線に於いて戦死されているが、残念ながら、その詳細は不明である。また、当倶楽部の名簿に載っていないが、終始ボール拾いに徹したまま去って行った数人についても忘れ得ないものがある。

 僭越ですが、私は卒業の翌年の12年より終戦までの間に前後約8年間、戦闘と警備に任じ、悪運強く軽傷のみで生き残り、末期高齢まで長生きし、排球部誕生などについて書き残せた事の幸を痛感している。    以上

                                         

 

守屋寅雄先輩に感謝  古我和俊 (昭和27年卒)

 このたび、守屋先輩から創部時代の貴重な御報告をいただきました。

 去る5月20日過ぎ、「古我君、守屋です」と元気なお声が聞こえてきました。久しぶりに聞く大先輩の声ですが直ぐ分かりました。「いやぁ御無沙汰しております。お元気ですか」「うん、一寸体調をくずしたこともあったが元気になってね、僕も94才になったので、人にも頼まれていた早稲田大学バレー部の創部のいきさつについて、今の間に書いておこうと思ってね。書き終えたのだが、どうしたものか、君に相談しようと思ってね」「えー、それは素晴らしいことですね、是非皆んなで読ませていただきましょう。仙北谷幹事長と連絡をとって『稲門通信』に掲載するよう相談しますので、先ず私のところへお送りください」ということになりました。

 受話器を置いて一息ついた時、94才の守屋先輩が、自ら、今、創部の経緯をお書きになった。これは凄いことだ、早稲田バレーへの情熱が、あの大先輩の中に燃え続けていることに大変な感銘を受けたのであります。

 

 守屋先輩は、早稲田のお仲間達は勿論のこと、地域バレーの教え子達、絵画や俳句のお仲間達からも、「寅さん」の愛称で皆んなに敬愛されておられます。絵画もプロ級で、毎年銀座で展示会が開かれており、故片野先輩共々、私も鑑賞させていただいたことたびたびであります。

 

 私の守屋先輩との出会いは、昭和22年(1947年)の3月、私にとって入学最初の合宿でした。この合宿は、守屋先輩の地元である大宮の『片倉製糸』で実施されました。当時は大変な食糧難の時代、その中にあって、守屋先輩が何もかもお膳立てをしていただいたと伺っております。合宿参加の主なメンバーは、中吉主将を筆頭に、前田直道、岩田三郎、八田喬、坪島芳文、坂東武良先輩等総勢20数名だったでしょうか。私は最年少の新入部員でした。

 OBである守屋先輩に加え、藤村先輩も参加され、熱心に御指導をいただいたことをよく覚えています。そして、この合宿が契機となって、春・秋両リーグ連覇という栄冠を手にすることができました。

 

 さて、この守屋先輩が書かれた早稲田大学バレーボール部誕生物語、あと数年で80周年を迎えようとする今、そのルーツを知ることはまことに意義深いことだと思います。是非、早稲田のバレーに連なる人々全員に読んでいただき、又輝かしい明日に向かっていただきたいと念願いたします。

 

 守屋先輩、本当にありがとうございました。

 益々の御長寿を心よりお祈り申し上げます。

                                       完

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